詰襟の学生服は陸軍と海軍の軍服が起源となっており、生徒たちに軍服のような制服を着せるのはいかがなものか。そういう意見から詰襟の学生服が減少するようになったと考えている人はいるのではないか。
![学習院型(左)と東京大学型の詰襟学生服(イラスト・梅原陸)](https://www.at-s.com/news/images/n125/1247955/IP230522TAN000040000_0000_CDSP%282%29.jpg)
実際に、過去の教育現場では、そうした理由からブレザーへと変更していった事例が確認できる。しかし、これは史料に基づいて研究すると、正しい理由ではないことが判明する。今回は、詰襟の学生服が軍服をモデルにしたのではなく、軍服が学生服をモデルにしたという歴史を紹介したい。
日本の詰襟の学生服には、①上着の前面にボタンがなく、ホック掛けで留め、襟から前合わせ、裾回りへと蛇腹がつく型と、②上着の前面に5個ボタンをつける型とに分かれる。
①の型は、明治12(1879)年3月にそれを制服とした学習院が最初である。学習院は、皇族や華族の子供たちが学ぶために設けられた。裕福な家庭では華美な服装で通学する生徒もいた。そこで学習院次長渡辺洪基は「生徒間に服装に関して競争心が起きるなどの弊害」をなくすため、①の型の制服着用を義務づけるようにした。
①の型より全国的になじみがあるのは②の型である。それもそのはずで、②の型を最初に制服にしたのは東京大学であった。明治19(1886)年4月に「大学」の字体を前章につけた制帽をかぶり、黒羅紗[らしゃ]の詰襟で大の字の入った金の5個ボタンをつけた制服を定めた。明治10(1877)年に官僚を養成する目的で創設された東京大学は日本の最高学府である。
明治19年に公布された小学校令で小学校は義務教育となったが、その上の中学校および高等学校に進学する者はエリートに限られた。中学生や高校生は、東京大学の学生が着る②の型に憧れた。それにより全国的に①よりも②の型が広がった。
①は学習院型、②は東京大学型と呼ぶのが正しいのである。それがいつの間にか、①を海軍型、②を陸軍型と呼ぶようにすり替わってしまった。海軍将校の1種服(冬服)として①の型が登場するのは明治29(1896)年である。明治33(1900)年に陸軍将校の夏服として②の型が登場し、明治45(1912)年に将校および下士官兵の略服として全面的に②の型が採用される。つまり、海軍が学習院型、陸軍が東京大学型の形状を軍服に取り入れたのである。官僚や将校を目指すエリートが、小学校しか出ていない兵下士官の軍服に憧れるわけがない。彼らが着る学生服は軍服ではなく、エリートの誇りを示していた。
(刑部芳則・日本大学商学部教授)
「詰襟」の歴史 軍服が学生服をモデルに【近現代 学校制服考②】|あなたの静岡新聞 - あなたの静岡新聞
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